写真という在り方



 写真が”自己表現”という文脈で語られるようになったのはいつの頃からだろう。

 海外の写真家、プロとして稼ぐ人、あるいは趣味としての写真を撮るアマチュア、いずれにしてもその作品には彼ら・彼女らが見たモノを、その時の感情を、見る人にどうやって伝えるべきかという苦悩を感じる。

 写真を撮る存在とは、目の前の事象を自分とは違う何処かにいる誰かに伝搬する者のことだ。

 ところが日本の写真を取り巻く事情はちょっと違う。

 多くのアマチュア写真家が、写真の中に”自分”を表現しようと試みる。”自分”という存在を、その四角い画像の中に写り込んだ何かによって、見る人に理解されたいという欲求を強く感じる。

 ”自分らしさ”とか”個性”といった言葉に、あまりにも踊らされてはいないだろうか。

 インプットのない所にアウトプットはあり得ない。それなのに、多くの人が”自分の中にある自分らしさ”を見て欲しいと言っている。

 自分という存在は生きていく中で周囲の人達によって、時には似た者のように、あるいは全く違う誰かに変化しつつ形成されていくものだ。初めから個を確立して生まれてくる人などいない。

 ならば、写真もまた観る人達によって様々な姿へと変化しても良いはずだ。

 批評されることを”自分自身への批判”としか捉えようとしないから、それを恐れて心地よい言葉だけが溢れる場所へと逃げこむ。そうして写真は独り善がりに陥る。